夏休み前、アパートで
何もかもが、そろっている。しあわせである。僕の上には、太陽の日がふりそそいでいる。
カーテンを閉めてしまいたいけれど、さみしくて出来ない。あたたかな陽射しは、僕には似合わない。似合わないんだけど……。
布団の上に座して、外を見ている。快晴。部屋の暗さが、余計に目立って、カーテンは揺れて、僕はどこかの誰かと同じように孤独だ。
布団の横には、リュックがある。明日の講義は昼過ぎからだ。『アルゴリズムとデータ構造』。あの先生は、声がはっきりしているから、僕は好きだ。
枕元には、目覚まし時計。今は四時半だ。十一時に鳴るようにセットした。夜一度鳴っても、僕はおきないだろうから、これは明日の朝のためだ。
何もかもがそろっている。大丈夫。しあわせである。カーテンが揺れている。風が頬にあたる。
掌に受けて、口に放る。缶ジュースで流しこむ。
―――おやすみ。
翌日の夕方、刑事が二人、ある汚いアパートの部屋に立っていた。
若いほうの刑事が、初老の刑事に瞳を投げかけた。
「先輩。他殺の可能性があるんじゃないでしょうか」
初老の男が、おや、と若者を見た。そして、言う。
「……無いよ」
「だって、先輩」
若者は視線を落として、部屋を見渡すようにした。
「明日の支度をして、目覚ましもセットして……」
初老の刑事は、眉間に細く皺をよせて、あごを手で撫でるようにした。そして、若者の上気した表情を、観察するように見ている。
「いつも通り、サークルの友人とも電話で馬鹿話して、図書館で会うことを約束したりもしているんですよ」
「ああ。それで?」
若者はコートのポケットから両の手を引き抜いた。
「そんな人間が、こんなことをするでしょうか。ちょっとおかしくないですか」
年配の刑事は、しばらく無言で、部屋を眺めた。そして言った。
「部屋は中から鍵がかかっていたんだぞ。窓からも誰も侵入した跡は無かった。枕元には本人の指紋しか付いていない小瓶と缶ジュース。他殺なわけが、あるか」
「犯人が何かの手を使って、他殺であることを隠しているのかもしれないじゃないですか。だって、目覚まし時計をセットしているなんて、変ですよ」
初老の男は眼をそらして、手を振った。
「帰るぞ」
「せ、先輩……」
汚いアパートを踏みならして、ドアを開け、二人の刑事は、僕の靴を踏み付けて出ていった。僕のぼろの靴。
(他殺だってさ。ばかだなぁ)
僕は頬笑んだ。
(ばかだなぁ……。だって、いつもと違うことなんてしたら、さみしすぎるじゃないか。いつも通りに、眠りたかったんだよ。いつも通り。何もかもがあって……)
天井が見えた。夢を見ていた。体を動かそうとしたら、ぎしぎしと音がするような気がした。体が重い。
上半身を起こした。掛け布団が足元にあった。
カーテンがふわりとめくれた。太陽の日が、僕の上にふりそそいでいる。いつも通りだ。何もかもがあって……。
時計を見た。八時。ドアに眼をやった。新聞紙が半分見えている。
空の小瓶を手に取った。小さなカタカナの名前を見ても、よくわからない。これを一瓶飲めばできる、と言ったのは、誰だったか……。
カーテンが揺れて、頬に風が吹いた。瞳を閉じた。下を向いた。
太陽の日がふりそそぐ。カーテンが揺れる。何もかもがそろっている。汚いアパートのすみで、僕はどこかの誰かと同じようにひどく孤独だ。そして。そして、生きているのだった。
ティッシュペーパーを何枚も抜き出して、洟をかんだ。小さな流しに歩みより、コップに水を注いだ。一気に飲み干した。息を深くはいた。
足を踏みならして枕元まで行った。目覚まし時計の頭を、ばん、と叩いた。もうベルは鳴らない。もう一度、洟をかんだ。
カーテンが揺れて、虫の音が聞こえた。
(でももう今日は、学校は、さぼろう……)
そう思ったら、少し笑えた。ゆっくりと瞳を閉じた。
何もかもがある、いつも通りの、朝だった。
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(C) 脇素子 (WAKI Motoko)