泣き顔をみせてほしい
その時、実際はハンカチが濡れて重みを増すくらいに、佳菜は涙を流していたのだった。そのことばかりを、佳奈は思い起こしていた。
大通りの真ん中を、上等のコートで風を切って佳菜は歩いていた。目の腫れはとうにおさまっていたが、後頭部が鈍く痛んだ。
佳菜は大股にならないように気をつけながら、家路を急いでいた。人々の視線を意識しながら、ただ見知らぬ足が、せわしく動いてすれ違っていくのを観察していた。
これで最後と心を決めてから、佳菜は顔をあげて、いま来た道をふりかえった。ごみごみした街並みの奥に地平線など視えるはずもないのだが、佳菜は遠くまで透かすようにして、武志の姿を追った。不在を確認して、もう一度確認して、また前を向く。
佳菜には、自分がそれを期待していたのかどうか、よくわからなかった。わかったのは、武志は佳菜を追いかけてきはしなかった、ということだけだった。
顔をあげて歩きはじめると、気分が少し楽になった。ショウウィンドウに映る自分の姿は、街の中を颯爽と進む大人の女性のそれだと、佳菜は思った。つい先程、男に振られたぼろぼろの女には見えない。佳菜は満足した。
全ての自分の動作をコントロールしていたつもりの佳奈だったが、いつのまにか惣菜の店にふらりと入ってしまっているのに気付き、一瞬うろたえる。いらっしゃいませと店員が明るい声をかけたので、佳菜はしょうがないので夕飯をここで買って帰ろうと考えた。ひやかしだと思われるのは、格好悪い。
佳菜は値段よりもカロリーと成分表示を熱心に眺めた。その内容が頭に入ってきているかどうかは、関係がなかった。白飯は買わなかった。おかずを三種類買って軽く笑顔を浮かべつつ店を出た。
風がふいて佳菜の顔にかかる髪が、うしろになびいた。一度泣いた顔があらわになって、通りすがりの男がまじまじと顔を見るかもしれないと感じ、彼女は目をふせた。
部屋に帰りついて、佳菜はうっかり表情を歪ませてしまい、自分をあわてて叱った。
佳菜は釈然としなかった。
――別れ話のときでさえ、満足に泣き顔も見せられないんだな。
佳菜がアパートから出ていこうという時に、武志が放った言葉だった。そう言われてから、佳菜はずっと考えていた。
実際、彼女は大粒の涙を流していたのだ。ハンカチだって、涙で重くなっていたのだ。
わからない。佳菜は、武志の言葉の意味がわからなくて、それが腹立たしかった。また、わからないなりに、武志のその言葉から、自分への侮蔑の匂いを感じとってもいた。
私を泣かせたくせに、と佳菜は心のなかでふざけてみた。私にこんな恥をかかせるなんて、いやな男。
佳奈は、惣菜の入った袋をキチンのテーブルに軽く投げるようにして置いた。普段食べているものと比べると、それは少し高級な夕飯であるのだが、今日は、魅力に思えなかった。とたんに興味を失った。
コートをさっと脱ぎすてた。リキッドタイプの化粧落としをコットンに含ませ、左手でメイクを落とす。右手でインスタントのコーヒーをつくり、居間のソファに腰をおろした。
佳奈はコットンを一瞥して、自分が化粧崩れなどしていなかったことを見て取った。ひどい顔で街中を歩いたりはしなかったのね……。佳奈は、コットンをテレビの横にあるくず入れに投げた。
コーヒーを飲む。佳奈は考える。本当の別れなのかしらと。最近は、会えば必ず武志は別れ話をした。いつも佳奈が少し泣いて、同じように帰宅した。別れ話は、結果的には、いつでもちょっとしたスパイスになっているのだと思っていた。
今日、佳奈ははじめて合鍵をかえせと言われた。今持っていないからと言って拒否した。むろん嘘だ。彼女は合鍵でアパートに入り、買ってきていた洋菓子を一緒に食べようと武志の帰りを待っていたのだから。
そうだ。まだ鍵があるわ。佳奈は、その思い付きに飛び付いた。何度も別れ話をしたけれど、その都度うやむやにしてきたわ。今度も、別れたりするわけがない。鍵を持っていれば、武志にまた会えるわ。会えばまた、武志は私を手放したくなくなるのよ。
――満足に泣き顔も……
佳奈は、再び武志の言葉を思い出した。満足に、という言い方が気になって、佳奈はムキになる。私は泣いていたわ。大粒の涙をぽろぽろと落として。バランスを取るのに、苦心していたわ。独立心の強い、めそめそ泣かない女と、そして恋人に適度に甘える女との間を、いつでも綱渡りしていたわ。うまくやっていたわ。満足出来ていないだなんて、信じない……。
佳奈は、コーヒーカップを音をたててテーブルに置いた。ひどい仕打ちをしないでと、彼にすぐにでも伝えたいという衝動を感じた。
佳奈は、電話を置いてあるサイドテーブルを眺めた。こちらから電話をするのは、この場合は得だろうか……。
佳奈は考えるのをやめて立ち上がった。電話をかけるのは取り止めた。先程の武志の声を、また聞くのかもしれないと考えると、まつげが細かく震えた。
佳奈は、日が陰りはじめた窓の外から室内が見えないようにカーテンをすばやく閉め、服をソファに脱ぎ捨てた。そして、浴室へ向かった。
佳奈はシャワーの湯を熱めに設定した。すぐに湯気に包まれた。
ただ流れる湯の中に、佳奈は立った。ボディスポンジにもシャンプーにも、手をのばそうという気がおきなかった。
佳奈は壁のタイルを見つめた。そして、変な気分だと思った。今から何かが起こるのでも起こらないのでもないのに、この胸騒ぎは何なの。ここはどこで私は誰なの。佳奈の意識は聴覚へと移った。水が流れていく音は、電話のベルに似ている。ああそうね、今だって、電話が鳴っているように聞こえるわ……。
そこまできて、佳奈は思わず湯を止めた。もうもうと湯気が動く以外は、何も動かなくなった。ベルのような音は、電話ではなく湯の流れる音。武志から電話がかかってきたのではなかった……。
佳奈は再びシャワーの蛇口をひねった。熱めの湯が顔にかかった。軽く、ため息が漏れた。佳奈は乱暴に髪を濡らして、ポンプを押してシャンプーを手に取った。
身体を洗い終えて洗面室に出た。バスタオルを取る途中から、佳奈はいつものように鏡に映る自分の顔に視線を合わせた。
その時、佳奈は自分のみにくい顔を見た。湯のせいではなくぐしょぐしょに濡れた、みにくい顔だった。その途端に、佳奈の心の、堰がはずれた。
二人うまくいっていると思っていた。武志の前での自分は、かわいい女であると思っていた。別れ話がおこっても、適度に甘えてみせれば、元に戻ると思っていた。自分が好かれていることを感じて、それでなにもかもが安心だと思っていた。
佳奈は、自分の泣き顔を見つめて、唐突に全てがわかったのだ。
私の、こんな顔が見たかったのね、武志。
佳奈は、鏡の向こうの自分が、下唇を噛むのを凝視した。
私からの愛情は、武志に伝わらなかったのね。私は、伝えようとしていなかったのね。いつでも、武志の眼に映る自分を、それだけを気にして。
佳奈はバスタオルを床に落とし、両手で顔を覆った。佳奈は、武志から嫌われてしまったことを知った。
――おまえ、別れ話のときでさえ、満足に泣き顔も見せられないんだな。
武志は私に、心底うんざりしたのだわ。
佳奈はよろけながら、バスタオルを拾って浴室を出た。のろのろと身体を拭いた。パジャマに着替えた。投げ捨てていた服を片付けた。
電子ジャーに残していた白飯を茶碗によそって、放っておいた惣菜の袋を手に取った。箸を探しているうちに、惣菜屋で割り箸をもらったことに気付いた。佳奈はほんの少し放心した。
合鍵は封筒に入れて、彼の部屋の新聞受けに返そう、と佳奈は思った。
今度はもう、本当に終わりなのだと、佳奈は悟っていた。もう会ってもしょうがない。
本当に好きだったのに……。そう考えたあと、佳奈は、声をあげて泣きだした。自身の言葉から、武志と自分との繋がりが、もうすっかり過去のものなのだと、思い知らされた。
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(C) 1999-2001 脇素子 (WAKI Motoko)